一編起請文
この作品はフィクションであり、実在する人物・団体には一切関係がありません
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511 名前:お伽草子 ◆NhDiiXmp8. [sage] 投稿日:2009/10/18(日) 10:32:20 ID:qZRz5Elq
他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。敵の神をこそ撃つべきだ。でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。ひとは、自分の真の神をよく隠す。
私は、最初にヴァレリイの呟きを持ち出したが、それは、毒を以って毒を制するという気持もない訳ではないのだ。
私のこれから撃つべき相手の者たちの大半は、新しいものを新しいままに肯定している者たちである。古い秩序というものも、ある筈である。
それが、整然と見えるまでには、多少の混乱があるかも知れない。しかし、それは、金魚鉢に金魚藻(も)を投入したときの、多少の混濁の如きものではないかと思われる。
それでは、私は何を言うべきであろうか。
ダンテの地獄篇の初めに出てくる、あのエルギリウスとか何とかいう老詩人の如く、余りに久しくもの言わざりしにより声しわがれ、
急に、諸君の眠りを覚ます程の水際立った響きのことは書けないかも知れないが、次第に諸君の共感を得る筈だと確信して、こうして書いているのだ。
一群の「前歴者」というものがいる。私は、その者たちの一人とも面接の機会を得たことがない。私は、その者たちの厚顔にあきれている。彼らの、その確信は、どこから出ているのだろう。所謂、彼らの神は何だろう。私は、やっとこの頃それを知った。
家庭である。
家庭のエゴイズムである。
それが結局の祈りである。私は、あの者たちに、あざむかれたと思っている。ゲスな言い方をするけれども、自分が可愛いだけじゃねえか。
世の中をあざむくとは、この者たちのことを言うのである。過ちならば、過ちでかまわないじゃないか。何故、自分の本質のその過ちを、被害者を貶めて隠さなければいけないのか。
過ちを非難しているのではない。私ほど、この世で過ちを重ねた人間はいないのではないかしらと考えている。何故、それを、隠蔽しなければいけないのか、私にはどうしても、不可解なのだ。
所詮は、家庭生活の安楽だけが、最後の念願だからではあるまいか。
そんな気持が、何処かに、たとえば、お便所の臭いのように私を、たよりなくさせるのだ。
潔さ。それは、貴重な心の糧だ。しかし、その潔さが、ただ自分の家庭とだけつながっている時には、はたから見て、頗るみにくいものである。
そのみにくさに、自分が所謂「恐縮」しているならば、同情する気にもなるであろう。
しかし、それを自身が冤罪だと、いやに被害者面して、その戯言に加勢する同学生、また野次馬もあるとか聞いて、その馬鹿らしさには、あきれはてるばかりである。
人生とは、(私は確信を以て、それだけは言えるのであるが、苦しい場所である。)ただ、人と争うことであって、その暇々に、私たちは、何かおいしいものを食べなければいけないのである。
ためになる。
それが何だ。おいしいものを、所謂「ために」ならなくても、味わなければ、何処に私たちの生きている証拠があるのだろう。おいしいものは、味わなければいけない。味うべきである。
しかし、いままでの所謂「彼らをよく知っている者」の差し出す言葉に、何一つ私は、おいしいと感じなかった。
ここで、いちいち、その「セカレ」の名前を挙げるべきかとも思うけれども、私は、その者たちを軽蔑しているので、名前を挙げようにも、名前を忘れていると言いたいくらいである。
何がおいしくて、何がおいしくない、ということを知らぬ人種は悲惨である。私は、日本の、この人たちは、ダメだと思う。
おいしさ。舌があれていると、味がわからなくて、ただ量、或いは、歯ごたえ、それだけが問題になるのだ。
せっかく苦労して、悪い材料は捨て、本当においしいところだけ選んで、差し上げているのに、ペロリと一飲みにして、これは腹の足しにならぬ、もっとみになるものがないか、いわば食慾に於ける淫乱である。
私には、つき合いきれない。
何も、知らないのである。わからないのである。優しさということさえ、わからないのである。
つまり、被害者の先輩という者は、私たちがその先輩を理解しようと一生懸命に努めているその半分いや四分の一でも、被害者の苦しさについて考えてみたことがあるだろうか、ということを私は抗議したいのである。
完
<太宰治・如是我聞>より