舞鶴の刻

この物語は完全なるフィクションであり、実在する人物・団体には一切関係ありません

522 名前:れろれろ ◆cjKuFhu4FQ [] 投稿日:2009/08/23(日) 22:04:50 ID:R4y7SFY1



「何とか言ったらどうなの!?」
少女の発した言葉よりも、植田には彼女の視線が痛かった。
少女は、植田の妹は、ただ真っ直ぐに植田を見据えている。
「……」
悪いとは思っているのだ。
同じく逮捕された六人の中でも、特に植田は胸を痛めていた。
誘いに乗ったことを誰よりも悔いていた。
快楽の代償として、世間の怒りが実家のパン屋に飛び火しようとは。
「都合が悪くなると黙るんだもんね…」
深く反省はしている。
だが、植田にはそれを口にする勇気がなかったのだ。
妹に謝ることさえ、罪のように感じられた。
「新商品、今日も全然売れなかったって…」
「……」
「兄さんはお店のこと、どうでもいいんだ!?」
違う、と声を荒げようとするが、本能が言葉を遮った。
まるで、妹に罵倒されることで罪を贖おうとしているかのように、植田はただ耐えた。
「親不幸者…!!」
その瞬間、何か硬いものが彼の頬を掠った。
どうやら、妹が何かを投げつけたらしい。
コトンと乾いた音を立て、それが床に転がる。
それこそが、新商品のパンだった。
フランスパンの生地で作ったコロネ、植田の両親が苦心の末に作り出した、現状の打開策ともいうべき新商品。
植田の視線はコロネに釘づけになった。
植田が逮捕された際、両親は彼を責めなかった。
ただ優しく憂いを帯びた目で、じっと彼を見つめただけだった。
子を思う親の気持ちが、これほど慈悲深いものだったとは。
妹のように罵ってくれていたら、どれほど楽だっただろうか。
思い出せば思い出すほど、植田の目頭が熱くなっていく。
「……」
床に転がったコロネから目を妹の方に向けると、妹は唇をキュッと噛んで植田に背を向けた。
「もう知らない!」
そう言ったかと思うと、妹の姿は既にその場にはなかった。
ふと外を見ると、いつの間にか街灯が点いていた。


「ただいま」
ドアを開けるなり、久宝は誰もいない部屋に言葉を投げかけた。
おかえり、と帰ってくるはずがないことを、久宝は誰よりもよく知っていた。
だが、そうせずにはいられない。
同じクラブの後輩と半ば同棲していたときの習慣は、今でも続いているのだ。
職場で久宝にとって不快な話題が持ちきりになったあたりから、彼は久宝の部屋を出ていった。
それ以来、連絡をとっていない。
「うわっ…!」
久宝がドアを閉めようとすると、滑り込むかのように褐色の蛾が中に入ってきた。
久宝は慌ててドアを全開し、玄関のサンダルを使って蛾を外に誘導した。
街灯の光が部屋に差し込んだ一瞬、鱗粉が妖しく閃く。
蛾は歪な螺旋を描きながら、街灯の方に羽ばたいていった。
ドアを閉め、スニーカーを脱ごうと踵に指をかけると、尻ポケットに入れてあった携帯電話が鳴り出した。
ローソンの袋を靴棚の上に置くと、袋の口から微かにからあげの匂いが立ち昇る。
久宝は、ローソンのからあげが好きだった。
ちょっとした贅沢な気分を味わいたい時は、必ず夕食のおかずに加える。
職場での出来事が原因で、久宝は白昼堂々と出歩くことができなくなっていた。
誰かに見られはしないだろうか。
野次を飛ばされはしないだろうか。
暗くなったとはいえ、油断はできない。
人に見られることに臆病になっていると自覚していたが、久宝自身にはどうにもできなかった。
それだけに、不快な思いをしながら買ってきたからあげは、久宝にとってはこの上なく格別だった。
久宝がからあげの匂いに耽っている間に、携帯電話が鳴り止んだ。
我に返って液晶画面を見ると、そこには植田と表示されている。
久宝は植田の電話番号を呼び出し、発信ボタンを押した。